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2025年9月 5日 (金)

惜別 マイケル・アンチューンズ

惜別

 マイケル・”チューンズ”・アンチューンズ(ジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンド) ロックン・ロールに生きて~愛しのB級プラチナ・バンドの、最高のサックス奏者に捧ぐ

 

 ジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンド(BBB)のサックス奏者として、50年以上の長きにわたりごきげんなプレイを聴かせてくれたマイケル・”チューンズ”・アンチューンズさんが2025年8月19日に永眠されました。85歳でした。1981年8月29日付をお届けした回のエンディングにて、イイヌマン26さんからのメッセージにお応えしてBBBについて述べた際に訃報に言及できなくて、ごめんなさい。また、放送で追悼の気持ちを伝えるのは少し先になることをお詫びいたします。

 ”いろんな想いが駆け巡っています。愛、感謝、尊敬、共に過ごした大切な喜びの時間、音もなく訪れた悲しみ。これほど長い期間に世界中を周り、マイケルの愛と魔法の輪の内側で信じられない音楽の旅を続けてこられたことーそれは私の人生における真の贈りものであり続けるでしょう”ージョン・キャファティは公式SNSにこう綴っています。

 米国東海岸のバー・バンドからプラチナム・クラスの成功を収めたグループにおいて、旅ばかりを繰り返してのステージの上で、チューンズさんのあふれんばかりのソウルフルな存在感はメンバーにとってもファンにとっても格別でした。ジョンの地元ロードアイランドのナラガンセットからコネチカットのニューヘイヴンは高名なトーズ・プレイスなど東海岸のロック・クラブでたたきあげ、ニュージャージーはアズベリー・パーク、かのストーン・ポニーではブルース・スプリングスティーンたちと幾度もジャム・セッションを繰り返したーそれがBBBです。大きく”アズベリー・ジュークス”としてくくっていい連中が広くてデカい道に突き進む中で黙々と演り続けたキャファティたちに、幸運が訪れたのは1983年。架空のロック・バンドのストーリーを描いた『エディ&ザ・クルーザーズ』で主役グループの代役演奏を務めたところ、劇場公開では不発だったのに映画はケーブルTVでの配信で注目され、70年代からのステージ・レパートリーだった1曲がサントラで火がつき、84年全米7位の大ヒットになると、ロック・クラシックとして今日まで400万回ストリーム再生を果たしています。それが「オン・ザ・ダーク・サイド」。サントラは95年までに累計300万枚のセールスに到達。もちろんバンドがそれ以降、常にトップ・スターであり続けた、わけではなく、ヒット状況も一過性のものだったとみられているかもしれません。メンバーも不動ではなかったようです。でも、ジョンと仲間たちにとっては金と名声だけが旅を続ける理由ではなかったーまず自分たちの最高の時間をただひたすら楽しむ、そしてそのグルーヴをファンたちと分かち合う、それらがすべてでした。だから辞めようとは思わなかった、きっと。スプリングスティーンの助言を得て、37年ぶりのオリジナル新作『SOUND OF WAVES』を2025年4月に発表したことは番組で伝えた通りです。4月10日のニューヨーク・カッティング・ルームでのショーケース・ライヴを観た音楽業界の顔役スティーヴ・リーズはSNSに”ロックン・ロールはどこにも行かない!新作記念ライヴで連中は会場の全員を吹き飛ばした。彼らはずっとそこにいる”と賛辞を贈っています。その4月10日はマイケルの85回目の誕生日でした。

 1940年のその日、マサチューセッツのニューベッドフォード生まれ(”UNTUNES=調子外れ”では本名があまりにも演奏家向きではないからステージ・ネームは”TUNES”になった?)。アフリカのカーボベルデからの移民だった祖父ジャキーム・アンチューンズはニューベッドフォードで1920年代から30年代にギタリスト/ヴァイオリン奏者として活動し、父ピーターもまたニューイングランド界隈のバンドでベース/ギター/ハモンド・オルガン・プレイヤーを務めていたそうです。マイケルはというと、13歳で兄デヴィッドと従兄弟ジョー・シルヴァと組んだセカンド・ジェネレーションでハイ・スクールなどのステージにてカーボベルデに由来する音楽を演奏していました。1960年代からニューイングランドやニューヨーク周辺のバーやクラブで無名バンドに関わりひたすら続いた下積みの日々に身を投じ、ジョンたちに合流すると1980年、ビーバー・ブラウン名義の初シングル「Wild Summer Nights/Tender Years」で既にバンドに身を置いていました。90年代以降のメジャー契約を失った時期にグループから離れていたようですが2004年から2011年には再合流し、その一方でアーニー・アンド・ジ・オートマティックスでブルースを吹いていたとのこと。

 9人の子供、20人の孫、29人のひ孫、そんな多くの家族に恵まれた人生でした。

41年前、1984年の夏、ラジオ日本に出入りする正体不明者だった私は、雑務を終えて編成の大部屋の、たしかプロデューサーの吉崎さんか堤さんのディスクあたりで当時ポニーキャニオンのラジオ宣伝を担当していた斉藤さんと出くわし、”お疲れ様です”などと言っていると”ウチから出るジョン・キャファティのシングル盤ライナーを書かないか?”と依頼され二つ返事で引き受けました。この年10月21日に発売された「オン・ザ・ダーク・サイド」の日本盤シングルには、まあまあ拙い私の文章が載っています。こんな風にヒット曲に何らかの関わりを持てるのはディスク・ジョッキーとして無常の喜びであり、かなり小さな誇りでした。イイヌマン26さんも高校生のときに初めてのコンサートとしてご覧になった、1985年の初来日を私も、今はなき新宿の東京厚生年金会館で観ました。ミュージック・ライフ誌の依頼でライヴ前にバックステージでメンバー全員とインタビューしたのも大事な思い出です。みな驚くほど気さくかつ礼儀正しく、私のような若造にきちんと敬意を払ってくれたのが非常に印象強く、また、Eストリート・バンドのビッグ・マン=クラレンス・クレモンズと重なる立場だったので勝手に大男をイメージしていたマイケルは、実際はグッと小柄で、それが余計に親しみやすいキャラクターに結びついていました。その夜のコンサートは、ゴキゲン以外の何ものでもなく、結構寂しい客入りだったのを気にするでもなく、ひたすらプレイに集中しつつ、エンターテイメントとして何がなんでも人々を満足させてやるという気迫を伝えるものでした。終盤、”on guitar  XXX”などとメンバー紹介に熱を込めたジョン、突然床に仰向けにぶっ倒れ、放ったのが”ON THE FLOOR  ME!!”というシャウト。他愛のないアメリカン・ジョークにB級ならでは濃密なニオイをたっぷりと味わったーそう、それは本物のロックン・ロールだけが醸し出す一度クセになると絶対に離れられない常習性の強い刺激であり、私もその鉄格子の部屋に閉じ込められた、THE BOSSがよく言う<prisoner of rock and roll>のひとりとなったのです。あの日のマイケル・”チューンズ”・アンチューンズさんの人懐こい笑顔が、今も記憶に残っています。

  きっとこの言葉を、ずっと私は忘れないでしょうーROCK N ROLL NEVER FORGETSー

                                                               2025年9月4日 記 矢口清治

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