1987年1月17日付け全米ヒットチャート
37位 Stay The Night/BENJAMIN ORR
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50位 Amanda/BOSTON
49位 Walk Of Life/DIRE STRAITS
48位 Manic Monday/BANGLES
47位 Words Get In The Way/MIAMI SOUND MACHINE
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2019年が明けて早々にダリル・ドラゴンさんの訃報が
伝えられました。
アリゾナ州プレスコットのホスピスにて
腎不全のため1月2日に76歳で
永眠されたとのことです。
父は44年の映画『カバーガール』によって
アカデミー受賞歴も持つ作曲者/指揮者カルメンで、
母エロイーズは映画やTVで活躍し
ビング・クロスビーら多数とのレコーディングも
経験したソプラノ歌手という音楽一家で育ち、
クラシックの教育を受けたキーボード奏者だった
ダリルは、67年から72年の期間に
ビーチ・ボーイズのツアーやスタジオの仕事に就き、
そのニックネームは被っていた船長風の帽子から
マイク・ラヴが「ヘルプ・ミー・ロンダ」の演奏時に
彼を”キャプテン”と紹介したのをきっかけに付いたとか。
71年に環境問題を題材にしたミュージカル
『MOTHER EARTH』のピアノ奏者のオーディションを
受けたダリルのセンスに気づいたのが、
その舞台の作曲を担当していたトニ・シアラー。
彼女は離婚協議中でほどなく以前のテニール姓となります。
ビーチ・ボーイズの次のツアーにピアニストとして、
今度はダリルがトニを推薦し、彼女はグループにおいて
初の女性バック・ミューシジャンとなりました。
トニとダリルは、次第に惹かれ合い交際を始めると同時に
”キャプテン&テニール”のデュオ名でロサンゼルス周辺で
一晩70ドルという不遇な条件でナイト・クラブで演奏します。
自主制作シングルのB面曲だったトニのオリジナル
「君こそすべて」をきっかけとして、74年にA&Mレコードと
契約を結ぶと、正式なデビュー曲となった、
ニール・セダカ作品のカヴァー
「愛ある限り」が75年に4週全米No.1に輝き
(年間チャートも王座)、
グラミー最優秀レコードにも選ばれる大ヒットに。
この時期にふたりは結婚し、以降おしどり夫婦デュオとして
大変な人気を博します。数々のすばらしいポップ・ナンバーを
発表し多くのファンを獲得したふたりは、
75年から80年の間に14曲の全米ヒットを放ち、
中7曲がトップ10に入り、
「愛ある限り」と「愛の証し」が第1位となっています。
この辺りはトップ40リスナーの多くもご存知ですね。
私がふたりを知ったのも、もちろん「愛ある限り」が
ラジオ関東の『全米トップ40』にチャート・インして来たときでした。
彼らがA&Mレコード所属の男女デュオで、
まさしくカーペンターズの流れを汲んだ良質の
アメリカン・ポップスを継承したすてきなグループである、
という番組を通じて得た情報もあって、当然大好きになりました。
「ロンリー・ナイト」「ショップ・アラウンド」
「恋のデュエット(マスクラット・ラヴ)」と続いたヒット、
それらすべてがそれぞれ魅力的で、
ラジオを聴く楽しさを存分に味あわせてくれるものばかり。
A&Mからカサブランカ・レコードに移籍しての「愛の証し」が
2曲目の全米第1位となったのも、実に劇的でした。
その後のトニのソロ活動はダリルがバックアップもしていたし、
また、ダリルもテクノロジー方面において意欲的な業績を
築いていたようで、チャートから遠ざかったとしても充実した日々を
送っているんだろうなと思っていました。
14年に離婚が報じられたのは残念でしたが、
その後もふたりの友情は変わらず親密な関係は
続いていました。
今回健康を損なったダリルの看病のため、
トニは自らアリゾナに引っ越していたと知り、
決して失われなかった絆の存在を改めて感じました。
ダリルとの惜別に際し、トニは
”本当にすばらしいミュージシャンでたくさんの友達に
深く愛されていました。ダリルと一緒にいたとき、
私は人生の最も創造的な時期を過ごしました”
という言葉にも胸を揺さぶられました。
また、レイ・ソウヤーさん死去の報も伝えられました。
やはり全米トップ40リスナーにとっては
忘れることのできないグループ=ドクター・フックで
看板的なキャラクターだった男性です。
ドクター・フック&メディスン・ショーとして72年に
「シルヴィアズ・マザー」のヒットでチャート・シーンに
登場した彼らは、初期の『フック博士の不思議な世界』や
『やたら汚ないセカンド・アルバム』
『正気の狂人達』といったアルバムの邦題が
表していたようにとても奇妙奇天烈なイメージと
音楽性を持ち、皮肉とヒネリが混ざり合った
独特の歌詞世界を描いたポップ集団でした。
自動車事故で眼を損傷したソウヤーの眼帯=
アイパッチ姿がピーターパンのフック船長を
思わせたところから彼がドクター・フックと名乗り、
73年の第3作『BELLY UP』からは
メディスン・ショーが外れてそのままバンド名となっています。
私が最初に彼らを耳にしたのは、
76年にサム・クックをカヴァーした「あの娘はたったの16才」が
トップ40入りしたときでした。
ほんわかとしたいい曲だなあと思って好きになり、以降
「めぐり逢う夜」「すてきな娘に出会ったら」「愛がいっぱい」
「セクシー・アイズ」と続いたシングル・ヒットは、
以前の知的に曲がった部分よりもペーソスや哀愁、
何よりも普通に共感できる日常的な心象が、
変わらぬ親しやみやすいメロディーとサウンドで描かれていて、
この時期のチャートをとても麗しく彩ってくれました。
80年2月9日放送の『全米トップ40』に
ゲストで来てくれたメンバーは、曲からの印象通りの人柄を
滲ませ、なんとも穏やかで温かく
おおらかな人生観いっぱいの時間を残してくれたと
記憶しています。
83年にソウヤーはソロとして独立し、
”ドクター・フック・フィーチャリング・レイ・ソウヤー”名義で
ツアー活動も展開していたようですが、
15年から健康を害してライヴを止め、
昨2018年12月31日に永眠されました。81歳でした。
私たちの人生にたとえられないすてきな時間をもたらせた音楽を
届けてくれたふたり。
ダリル・ドラゴンさん、レイ・ソウヤーさんに心から感謝の気持ちを伝えます。
2019年1月12日 記 矢口清治
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